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[雑記] 「カッコイイ」言語、文化……

話せたらカッコイイと思う外国語、1位「英語」、2位「仏語」(アイシェア調べ)

アイゴー、左大臣殿からじきじきに指名されてしまったわん――というわけで、わたしもこの記事を読んで思ったことを書き散らかしてみようと思います。

左大臣殿とほぼ同じ感想になってしまいますが、外国語運用能力は別に超能力でも何でもありません。ですから、かりにその言語が日常的に話されている地域に放り込まれなくとも、きちんとした言葉で書かれた文章を素材にして基本的な語彙やら文法事項、発音、読解方法、聴解方法などに関する知識をぎゅうぎゅうに仕込まれたら、たとえ訥々とした調子になったり「お国訛り」を響かせることになったにせよ、まとまった内容をまっとうな言葉遣いで「話す」くらいのことはできて当たり前だと思います。長期にわたって勉強をしたのに片言さえも話せないというのは、学習法や学習者自身の言語観――さらにひどい場合には、対人観――のどこかに根本的な欠陥がある、と言わざるを得ません。ですから、外国語で話せることが「カッコイイ」などとは決して思いません。本当に大変なのは、むしろ外国語で書かれた文章をきちんと「読む」ことであり、その言語で質と量の双方においてまとまったものを「書く」ことでしょう。それこそではないのですが、わたしのような者が外国語絡みのことで「カッコイイ」と思えてならないのは、愛読のみならず愛誦したくもなるような詩歌(もちろん、片仮名書きで「ポエム」などと称せられているところの、単なる似而非文学ジャンルはここには含まれません。あんなものはチラシの裏の一類型に過ぎません)や何度も再読したくなるような質の高い散文作品を外国語で書くことができる方々についてです。その点で、わたしにとってはクンデラやナボコフそして(日本国内ではまだあまり知られていませんが)パトリク・オウジェドニーク Patrik Ouředník らは今も昔も神様のような存在です。

そうした言語運用能力に関する個人的な与太話はともかく、そもそもある言語が「カッコイイ」ものとして受け取られるとはどういうことなのでしょうか。ある言語に「カッコイイ」という肯定的な形容詞が与えられるということは、その逆に別の言語には「カッコワルイ」あるいは「ダサイ」などといった否定的な形容詞も与えられ得ることが前提となっているでしょう。わたしは、どうしてもこうした物言いに疑問を抱かざるを得ません。研究している対象が生み出されてきた地域の歴史的背景や普段何気なく研究者仲間からかけられる素朴な言葉などのことを考えると、実に胸糞が悪くなります。単刀直入に言えば、こうした物言いは、結局のところある言語とその言語を話す民族集団そしてその民族集団が主要な成員となっている国民国家のイメージを語っているに過ぎません。件のアンケートからは、そうした言語(民族、国家)観が見えて来ます。まさに、「脱亜入欧」という言葉から漂ってくる腐臭がぷんぷんとしてきて、実に不快でした。(さらに言えば、「脱亜入欧」の完成形は、この国で西洋芸術音楽にたずさわっている人間たちが作っている社会集団――演奏家や作曲家だけではなく、聴衆や音楽学者たち――においていやと言う程見出すことができるかと思います。かく言うわたしもその一員でありますが……。)

こうしたことはある言語で書かれた「××文学」と呼ばれている領域に関するイメージの作られ方についても同じことが言えます。どのサイトかはここではあえて触れませんが(触れるのもバカラシイ!)、ビジネス英語界隈で名を成していらっしゃるさる大先生のサイトで「四畳半にしか住んだことのない者にフランス文学は理解できない(要するに、俺たちブルジョワにしか分からないのさ)」という素晴らしい「文学理論」が披瀝されていましたが、こうした驚天動地の理論もこうした言語のイメージに関する物言いと本質的に同じものです。四畳半よりもはるかに劣悪な環境であったであろう牢獄やら精神病院でサド侯爵が書き続けていたどえらい小説群やらエミール・ゾラやらジャン・ジュネやらが書いていた小説は、果たして「フランス文学」の範疇には入らないのでしょうか――と小一時間問い詰めたくもなりました。この大先生の理論に基づいて「ロシア文学」の本質を捉えようとすると「(大先生にとっての)フランス文学(像)」に比べるとはるかに大変な思いをする破目になることは火を見るよりも明らかです。だいたい次のような感じになるでしょうか……。「ロシア文学を理解しようと思えば、ペテルブルクやモスクワで親の全財産を食い潰すような無茶な放蕩生活を経験したり、シベリアの牢獄やラーゲリのナールイ(板寝床)で寝起きし、水のようなカーシャをすすった後に重労働に一日中明け暮れるという生活をも十年単位で経験しただけでは実は不十分である。それだけではなく、悪魔とその一味と取引をし、魔法を駆使することで、自らの愛人の才能を叩き潰した腐れ文学官僚どもを皆殺しにしたあげくに、当の愛人やポンティウス・ピラトやイエスやらと対面できてようやく、ロシア文学の何たるかがほんの少しだけ見えてくるようになる」のでしょうから。

まあ、それはともかく、ある言語が「カッコイイ」かどうか、あるいはある言語で書かれた「××文学」が「ごーじゃす」かどうかなどといった、文化本質主義にどっぷり漬かった有害無益な与太話に耽ることよりもむしろ、どの言語にも独自の価値があると同時に(どの言語にもそれなりの「カッコヨサ」がある)、その言語が使われている社会集団においてはそれ相応の価値のヒエラルキーが存在する(どの言語においても「カッコイイ」とされている言い方があるとともに、「カッコワルイ」とされている言い方もある)と、《健全なる》文化相対主義と社会構築主義を取り入れて考えてみることの方が、はるかに健全だと思います。ただし、文化相対主義はよほど注意深く扱わないといともたやすく不健全なものに陥ってしまうものだと思います。先述した文化本質主義と結託し、結局のところは本質主義的な文化観を強化してしまうといったことについては、これまで多くの人が指摘してきましたが、文化相対主義の危険性はもう一つあると思います。「どんな『文化』にも『価値』がある」と言いながら、自らが対象へ与えている価値判断のあり方やある「文化」を実践している集団において機能している価値判断のさまざまなあり方を見て見ぬふりして、単なるガキっぽいシニシズムでしかないところへと退行しがちであることがそれです。この辺のことはまだあまりうまく言えないのですが、以前から文化相対主義を声高に叫ぶ方々に対して感じてきた「気持ち悪さ」は、この辺にあるかと思います。ちなみに、《不健全な》文化相対主義が醸し出す「おぞましさ」については、某所でさんざん見ました。ですが、詳細に触れるとやばいことがいろいろとありそうなので、やめておきます。まあ、なにがともあれ、限りなく健全なる文化相対主義を一言で定義するとすれば、おそらく「にんげんみなびょーき」あるいは「みんげんみなもらいこじき」もしくは「にんげんみなへんたい(せいよくしゃ)」さらには「にんげんみなあいのこ」などといったものになるでしょう。

(この項はまだまだ続きます。思うところがたくさんありすぎて、一日では書き切れません。というわけで、今日はここまでにしておきます。)

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