[音楽] [いいおさら] [ピアノヲタの秘かな愉しみ] ソラブジ《100の超絶技巧練習曲》より第26番-第43番の音源を落手
Доброе утро、 偽ロシア人テンプラ学生兼ヘナチョコ英語講師――そして、テンプラを廃業したのちには、単なる「地下室人」兼ヘナチョコ英語講師になる可能性が非常に高い――アレクサーンドル・ニコラーイェヴィチ・スローニンことナカムリャーコフであります。論文に流し込む文章をガシガシと組み上げてゆく際には、ソウル・フラワー・ユニオンのアルバムやキリル・コンドラシンがモスクワ・フィルを指揮して録音したショスタコーヴィチの交響曲第4番や第8番や第10番、あるいは法外な超絶技巧が要求されるアルカンのピアノ曲の ogg vorbis ファイルをひたすら爆音で鳴らし続けるというかなりアレゲな日々が続いております。そんなわけで、当無礼ログの左下にある last.fm の flash アプリでソウル・フラワー・ユニオンやショスタコーヴィチやアルカンの作品名が表示されている時には、奴めどうせ誰も読みもしないのに目の色を変えて馬鹿みたいに読み辛い欧文直訳体丸出しの饒舌極まりない悪文をドス黒い執念と怨念とやらをたっぷりと込めてあたふたと書き散らしているのだろうなケケケケケ――という風に大声でせせら笑って下さっても、当方としては別に構いません。
ところで、今でこそチェコ音楽の専門家という顔を公に見せてはいますが、ソウル・フラワー・ユニオンの名曲《見世物小屋より愛を込めて》の副題よろしく「ピアノオタクの秘かな愉しみ」に一日中耽りたくなる時もよくあります。ピアノオタクはとっくの昔に廃業したとしばしば公言しているものの、実際は相も変わらず馬鹿なピアノオタクであり続けております。世間でもてはやされている無知蒙昧な自称ピアニスト――あえて名前は出しません――のかったるい演奏を耳にすると怒りを禁じ得ませんし、然るべき速度で弾かれていない演奏や曲の構造が見えて来ないような演奏を聴くと虫酸が走ります。それとは反対に、リストの《半音階的大ギャロップ》や《ノルマの回想》や《ドン・ジョヴァンニの回想》などのおバカな作品の大爆演などを聴かされると、心がわくわくしない訳にはゆきません(数年前に某室内楽専用ホールで北住淳(あつし)さんが《ノルマの回想》を眼鏡を豪快に吹っ飛ばしつつも最後まで一気に弾き進まれた名演を聴いた時には、心底びっくりしましたし腰が抜けそうになりました。一生の思い出です)。学部生の頃には、リスト、アルカン、ゴドフスキ、ブゾーニ、シマノフスキ、メトネル、ソラブジ、スティーヴンソンといった、かなりアレゲな作曲家がものした「秘曲」に弾けもしないのに次から次へと手を出してゆくという、超絶技巧ピアノオタクの定番コースを「履修」していたという状態でした。しまいには、知人らと共謀してソラブジ・アーカイヴにソラブジの楽譜を注文するに至りました。今となっては笑い話ではありますが、学部生の頃にはドイツ・グラモフォンが出している音源が手元には一枚もない一方で(黄色いレーベルの音源は、大学院に入院してからいやでも爆発的に増えました。念のため)、ピアノオタク御用達レーベルである Altarus の CD が日に日に増殖してゆきました。まだネットもなかった頃なので、入手することに血道を上げるのみならず、入手することそれ自体が目的になっていた時期もありました。
そんな訳で、先日笠寺観音の副住職氏から、ソラブジの《100の超絶技巧練習曲 100 Transcendental Studies》の2枚目の音源がようやく発売されたという知らせを聞いて、《私一人で奏でる協奏曲 Concerto per suonare da me solo》(訳はこんな感じで良いのでしょうか?)の音源とともにすぐさま某 HMV のオンラインショップでポチってしまいました。以下は、聴いてみての感想ならびに与太話いろいろです。
ソラブジの《100の超絶技巧練習曲》の全容はまだ掴めていないので決定的な言葉はまだ言えませんが、1番から43番まで聴いた感じではソラブジのピアノ作品で用いられている技法の見本帳――あるいは、「ソラブジ語」の入門書――という感じがします。彼の長大なピアノ曲でしばしば耳にするような極限的な演奏技巧だけではなく、作曲技法がコンパクトに示されているという感じがします。もちろん楽譜が手元にないので作曲技法の詳細について喋々することはできませんが、《匂える園》や《クラヴィチェンバロのための作品 Opus Clavicembalisticum》などを彷彿とさせる、非常に息の長い主題に基づいた拍節感が希薄なフーガや、これまた拍節感がほとんどないノクチュルヌを書く際の「ノウハウ」が示されているように聴くことができました。
《私一人で奏でる協奏曲》については、まだしっかりと聴き込めていないので何とも言えません。
それにしても、ソラブジの曲を聴いていていつも思いを巡らしてしまうのが、彼の特異な作風と社会的な要素との深い関連についてです。ソラブジの曲と社会的な要素というのは、まったくつながらないかもしれません。わたし以上に彼の作品を聴き込まれている方にとっては、実に奇異に響くことでしょう。確かに、例えばカーデューやジェフスキーあるいはノーノあるいは多くのポピュラー音楽の担い手とは違って、社会で起きた出来事に触発されて――あるいは、社会で起きている不正に対する抗議として――作品を書くといったことは、ソラブジにおいては皆無でした。もちろん、そうしたレヴェルの話での「社会的」側面ではありません。問題は、彼の作品が要求する法外なまでの難度と演奏時間にこそあります。最初から最後まで弾き手と聴き手の双方に気を抜くことを許さないような、対位法と超絶技巧を駆使した曲を数十年間書き続けたり、自作の演奏を数十年間にわたって禁止することは、果たしてどのような境遇にある者に可能なのか――ということです。曲を書いて発表することで日々の生活費を稼いでいる人だと、自分自身で演奏できないような曲の場合には演奏家に弾いていただいた上で聴衆に聴いていただけないと、確実に飯の食い上げという事態に陥ります(スターリン時代に迫害に遭った作曲家たちのことを考えてみると、このことはすぐに分かることでしょう)。ですから、職業作曲家をやってゆくには、どんなに偉そうな理念を作品に込め、それを世間に大仰に吹聴しようとも、最終的には演奏家がしっかり練習さえすればきちんと弾ける上に、聴衆も気合いを入れれば作品の持ち味を認識することが可能な作品をコンスタントに書いてゆく必要が出てくるはずです。こうした観点からソラブジについて考えてみると、彼は何らかのかたちで作品を公表することによって生活費を稼ぐ必要がないという経済的な条件に恵まれていたからこそ、異形の作品群を書き続けることが可能だったのだ――と考えることができるでしょう。作品が暗黙のうちに前提としている経済的な存立基盤についてこのように少し考えてみただけで、ソラブジの作品もまたきわめて「社会的」な存在であると言えます。
ソラブジの作品の存立を可能とした経済的基盤という問題は、例えば20世紀後半のいわゆるゲンダイオンガクの作曲家たちにも当てはまる問題でしょう。例えば、大学で作曲を教えている(/た)ゲンダイオンガクな人たちや IRCAM な人たちの(言葉は悪いのですが、オナニー、あるいは新秘孔を究明し、新しい技を開発することに腐心するものの結局いずれもアレゲな結果に終わってしまう「アミバ流北斗神拳」のような)作品を考える時には、こうした視点が必須となりましょう。
# 書き始めてみたら、まるでマルクス先生が主張するところの、古典的な「下部構造」と「上部構造」の話になってしまった……。アイゴー……。
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