[雑記] [再掲] ある生臭坊主の法話における「俗情との結託」
アクセスログを見ていると、なぜか「富田正樹 2ちゃん」などという検索ワードでいらっしゃる方がけっこういらっしゃいました。いったいどのような意図でもってそんなキーワードで検索をした末にこのような無礼ログにわざわざ立ち寄られたのかはよく分かりません。ともあれ、末尾で富田さんが主宰されているサイトへ言及したこの駄文を久方振りに読み返してみたところ、言いたい放題のことを豪快に言い倒しているのが我ながら面白かったので、加齢御飯先生のひそみに倣ってほんの少し手直し(と言っても大したことはしていませんが……)をしたものを再掲してみたくなりました。
先日、法事があって真宗のとある僧侶の法話を耳にする機会があった。端的に述べると、「法話」と呼ぶに値しないひどい代物だった。読経が下手糞で聴くに耐えないものであったことについてはここでは云々しないが、法話の内容にはかなり頭に来た。業種は違うとは言え、わたしも他人様に話を聴いていただけて口に糊することができる境遇にある。だからこそ、ろくな準備もして来なかったことが即座に分かるような内容であったことや、さして親しくもない間柄の者が場の大多数を占めていたにもかかわらずぞんざいな口調で話をしていたという点でも腹が立った。言い出せばきりがないのだが、今思い出しても気分が悪くなるので、ここでは最もひどいと思った内容にだけ触れることにする。(なお、以下の内容は、いかなる宗教も信仰してはいないものの、宗教やその聖典に対する敬意は持ち合わせているつもりの無神論者の感想であることを、はじめに断っておく。したがって、宗教者を批判するような文章など一字たりとも読みたくないという方は、ここで読むのをやめておいた方が良かろう。)
法話の中に、ある檀家の娘さんが「35歳にもなって」どこにも嫁ごうとしないことをなじる一節があった。この僧侶曰く、結婚しない上に子供を作ろうとしない態度は、命を次の世代に伝えないという点でけしからぬ――とのことだ。この論法には、実に呆れた。眠気が一気に吹き飛んだ。あやうく学者仕事に際しての「戦闘モード」が発動しそうになった。ここで槍玉に挙げられた人物と年齢が近く、一人暮らしをしておらず結婚もする予定もないという点でわたしと似たような境遇にある――ということは、ここでは関係ない。もちろん、わたしはこの檀家の一家のことはまったく知らないし、この僧侶とは法事などの時以外には一切の付き合いはないからだ。とは言え、かりにこの僧侶が件の檀家の家族そして当の娘さんと長い付き合いがあって、互いに気心が知れ合った間柄であったにせよ、こうしたことは本人たちのあずかり知らない場で「法話」の「ネタ」――すなわち、一般論――として話すべきなのだろうか。少なくともわたしにはそうは思えない。一般的な意味における「男」であれ「女」であれ、またトランスジェンダーであれ、そもそも人が生きる目的は子供を作って、「お家」を絶やさないようにすることなのか。また、そもそも人たる者、必ず「生きる目的」なるものを持たねばならないのか。あるいは、結婚しない者は、人非人なのか。かりに結婚しようと思っても、経済的な事情や身体的な事情あるいは人間関係にまつわる諸事情などもあってなかなか思うようにならないということも、今日においてはざらにある。また、意識的に結婚しないという選択肢を選ぶ人も多いではないか――云々。こうしたことどもは、深遠難解な教義を知らずともすぐに分かるはずだ。こうした考えを「屁理屈」というのならば、どのような考えがまっとうな「理屈」として受け入れられるのか。「屁」という接頭辞が付くかどうかの境界線は、果たしてどこにあるのか。この僧侶が得意満面の様子で口にしたこの話を耳にして頭から湯気が吹き出そうになった時に、新約聖書のある一節をふと思い出した。
「結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい」(マタイによる福音書 19:12)
無神論者であることを常日頃から公言して憚らないものの、これは実に深い言葉だ。聖書の言葉のご利益なのかもしれないが、この僧侶の思慮の無さを糾弾して場の雰囲気をぶち壊してしまう――身近にいらっしゃる方ならご存じのこととは思うが、わたしはこういうことをたまにやらかしてしまう――などといった行為に走ることはなかった。
仏教の僧侶に向かって新約聖書を読めなどと言うのは、もしかすればきわめて無礼なのかもしれない。だが(個人的には、宗教者であることを自他ともに認めるのならば、自らが信仰する宗教以外の聖典が説いている内容にも謙虚に耳を傾け続けるべきだとは思う)、世間一般の価値観とは無関係に人の心にじかに向き合って叱咤激励することこそが、宗教者の役割ではないのか。わたしのような全く信心を持たない者であっても、気持ちが凹んだ時に聖書などを読んで心を打たれるのは、このような言行に満ち満ちているからだ。確かに、わたしの宗教者に対して抱くイメージはナイーヴ過ぎるのかもしれない。だが、人の悩みや悲しみに世間の価値観とは無関係に真正面から向き合えない宗教者など、単なる読経マシンあるいは出来の悪い聖典解釈マシン、さらに言えば単なる集金マシンでしかない。難しい話や「屁理屈」はいいからとにかく葬儀や法事といった儀式の場では読経がどうしても必要だと言うのならば、生身の生臭坊主など必要ない。マネキンに袈裟を着せておいて出来合いのお経のテープやら CD やら DVD やらを用意しておけば、それで事足りよう。お布施なるギャランティも用意しなくて済むので、経済的にも助かろう。俗世間の価値観から少しでも逸脱する者を俗人とともに否定するような僧侶を雇うことを考えると、はるかにましだ。思うに、「俗情との結託」という言葉こそが、件の僧侶もとい教団所属の月給取りの精神構造を形容するのに適した言葉なのだろう。
追記。上に引用した新約聖書の一節やキリスト教における結婚そしてジェンダーとセクシュアリティの問題については、富田正樹さんがここで素晴らしい解説をされています。まさしく目から鱗が落ちるような文章です。少し長い文章ですが、ご関心のある方は一度ゆっくりとお読み下さい。あと、他の Q&A の内容も素晴らしいです。「下世話な Q&A」などと銘打たれていますが、まったくそんなことはありません。信仰を持っていない者にも信仰を持つ人たちの考え方に関する知的な理解ができるように書かれています。
キリスト教の聖職者がものした文章には独善的なものが多くて、往々にして鼻につきます。また、聖職者ではありませんが、聖書の言葉を隠れみのにして極めて悪質なナショナリズムを煽動する文章をものし続けている白痴的な心美しい方々もけっこういらっしゃったりします。避難所に身を寄せる人たちを甘ったれていると喝破して一部の筋の間ではすっかり人気者となった曾野綾子――天変地異が起こって彼女が住み家を無くした際にも、堅固なる信仰と意志の持ち主である彼女のことです。絶対に避難所には入らならないことでしょう――や、もうとっくの昔にくたばりましたが中途半端な頭の持ち主にやたらと支持されている偽ユダヤ人イザヤ・ベンダサンこと山本七平らの嘘八百や知ったかぶり丸出しの生半可な知識にまみれた深い学識に裏打ちされた卑猥な文章などを読んでいると、生殖器は何ら反応しないものの少なくともほのぼのとした気持ちにはなれます。
己れがものしたこのようにけがらわしい文字列を出版社を利用してインクを用いて紙に印刷させた上でボンドを使って束ねさせたものを市場に撒き散らすことによってハシタ金を稼いでいる、件の薄汚ない肉塊どもとは違って、富田さんの文章にはまったく嫌味がありません(そもそも聖書の教えを悪辣なるナショナリズムを支えるために利用すること自体、部外者から見ても道義に反しているように思えてなりません)。なので、下手をすると知らぬ間に折伏されてしまいかねません (^_^;)
さらに追記(2009/10/26): 曾野婆さん、日本郵政の役員様に就任なさるようで……。なんとも微笑ましいことです。
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